安定を目指すほど忙しくなる?充実感のない忙しさの正体

アイキャッチ マインド

とにかく毎日が忙しすぎる

土曜日の休日出勤を終え、ようやく迎えた日曜日。

「今日こそゆっくりできる」と思っていたはずが、気づくと「忙しい」で埋め尽くされていました。

朝5時半に起きて、キッチンの片付けから始まった1日。料理、洗い物、洗濯、掃除、買い物、子どもの世話、お風呂、寝かしつけ、散らかった部屋の片付け、溜まったメールの処理——。

1人の時間が取れたのは、最後の洗い物を終えた23時過ぎでした。

「自分の時間」は就寝前の数分だけ。

大量のタスクをこなした1日。でも最後に感じたのは充実感ではなく、「何もできなかった」という虚しさでした。

「時間がない」は本当か?

私の口癖の1つは「時間がない」です。

でもよく考えてみると、時間は誰にでも1日24時間あります。「時間がない」のではなく「タスクが多い」のかもしれない——そう考えたとき、もう一つの問いが浮かびました。

そのタスクを見つけて、自分に課しているのは誰か。

思い返してみると、1つのタスクを終えた瞬間、次のタスクを探している自分がいました。洗い物が終われば次は買い物。買い物から戻れば子どもの面倒を見ながら掃除、終われば次は料理⋯

次々とタスクを設定し、自分に課していたのは他ならぬ自分自身でした。

くろこ
くろこ

タスクに追われているのではなく、タスクを追いかけている自分に気づきました

安定への追求が、退屈への恐怖を生む

では、なぜ次々とタスクを自分に課してしまうのか。

その答えを探していたとき、ある感覚に気づきました。

「何もすべきことがない」退屈な状態が、怖い。

私はずっと不安を減らしたいと思っていました。見通しが立つ暮らし、予測できる1日、「こうすればこうなる」という安心感。それを積み上げることが、いい暮らしだと信じていました。

でも、その追求が思わぬ結果を生んでいました。

安定した生活は、日常を予測可能なタスクで満たしていきます。そして予測できる日常は、退屈を感じやすい日常でもあります。退屈が怖いから、またタスクで埋める。そのタスクも予測通りに終わるから、また退屈が顔を出す。

安定を求めれば求めるほど、退屈への恐怖が強まり、自分を忙しさへと駆り立てる。

そんな負のループにはまっていました。

不足していたのは時間でも能力でもなく、「挑戦」だった

安定の反対は、不安定です。でも思い返してみると、初めてのことや未知のことになど、不安定なことに取り組んでいる時、私は「忙しい」とは感じていませんでした。

くろこ
くろこ

どちらかといえば「夢中」という感覚でしょうか

そして挑戦の後には、結果を受け止める余韻が残り、すぐに次のタスクを詰め込むことはありません。

一方、今の日常はどうでしょう。育児と家事を繰り返すうちに、「洗練された」ルーティンができあがっていました。合理的で、効率的で、予測通りに進む1日。

その過程で、挑戦や非日常は「非効率」として排除されていました。「いつもどおり」が正解になり、「はじめて」が消えていきました。

不安定な要素を失った日常。それは安定している代わりに、単調で退屈なものになり、その退屈から逃げるために、私はタスクを積み上げる。

つまり、忙しさの連鎖を止めるのは、挑戦という「不安定なイベント」だと気づきました。

「何かしなきゃ」と感じたとき、タスクの代わりに挑戦を入れてみる

忙しさの原因が退屈への恐怖である以上、「何もしない時間を作ろう」という発想は逆効果。空白はむしろ退屈を呼び込み、またタスクを探し始めてしまうからです。

そこで試したいのが、タスクの代わりに「小さな挑戦」を意図的に組み込むこと

新しい料理を作ってみる。いつもと違う道を使う。初めてのお店に入ってみるなどなど

大切なのは「予定通りに完了すること」ではなく、学びや発見が残ること。結果が読めない、その小さな不安定が、退屈への恐怖をやわらげてくれます。

欲しいのは暇でなく、充実した毎日。

「何かしなきゃ」と感じた瞬間、自分に一度だけ聞いてみます。

「それはタスク?それとも挑戦?」

※過去にも「忙しさ」について考えています↓↓よろしければどうぞ

時間が欲しかったはずなのに—「1人の休日」が教えてくれた「忙しい毎日」という幸せ
「自分の時間さえあれば…」二人の子どもを育てながら慌ただしく過ぎていく毎日に、私はいつも自分時間の不足を感じていました。そんな中やってきた念願の「1人の休日」。でもいざその日が来ると、気力が湧かず、ただタスクをこなすだけで終わってしまいました。過ぎ去った休日の「虚しさ」で気づいたのは、忙しい毎日の意外な正体でした。

コメント

タイトルとURLをコピーしました